成り立ちを想像すること
紙に鉛筆で線をぐるぐる描く、クレヨンで色を塗る、土の上に絵を描く、砂山を掘って空間を作る。和紙に墨で書く、染料で布を染める、粘土で焼き物を作るetc..
繰り返し体験し、探求してゆくと、やがてそのプロセスから材料・素材自体のこと、現象自体のことなどへも興味の対象が広がるだろう。それら材料や素材にはそれぞれの特徴がある以上に、関連性もあるので、私たちの好奇心と知識は網の目状に繋がり、広がってゆく。
ところで、繰り返し認識したプロセスを、とても人工的な材料や素材にも作用させみたいと思う人が現れても不気味ではないでしょう(笑)例えばコンピュータ言語や紙の上の点や三角形などに・・・。
可塑性のある動作は、不確定で情緒的な部分を包含した新しい表現を生み出すように感じます。
というわけで、ちょっと脱線。
あるソフトメーカからのニュースレター。
またまたあるソフトからの出力方法に関する情報提供。
先日、厚い(熱い・篤い)情報提供を受けたばかりなまま消化不良だったのに、あ〜また〜というのが正直な気持ちです(笑)なんでこんなにマニュアルをみにゃ、目的に沿った効果を期待できないようになっているのか!
Aを知っても、Bが想像できず、Cはまったく新しいカテゴリのお話だったり・・・プログラムを操ることのできない一般ユーザは、ただただ、決められたことを覚えなくてはなりません。う〜ん、辛い・・・。
もう少し、想像力や過去の経験、すてきなユーモアが活かせるようにはならないものか(そんなの・・・・どんなソフト?)と、勉強をするのを渋って愚痴を言ってみました。
大脱線。まま。
色の形
形は 色の からだ
色は 形の 心
カール・ゲルストナー著「色の形」という古い本が手元にあります。
過去に積み重ねられた探索の智恵や、誰かの格闘を感謝しつつ受け止めて、もう少しでも前へ進もうとする。
意志のある少なからずの人の働きを忘れずに、自分自身も過去や記憶に安住していてはならない・・・と、呟いています。
不言実行の人を励みに、しかしながら、メモをブログに書いてしまおうと思うわけです。
さて、まだざっと目を通してから読み始めたばかりなのですが、翻訳で読むとはいえ、「まえがき」からとても興味深いこの本。
しばらくの間、読みながらメモなどを書きたいと思います。(マイペースです)
このあたりの研究は、多くの研究者によって果たされたり、遂行中だったりすることと思いますので、あまり学術的な方向ではなく、今私が興味を持っている方向に引き寄せて読んでみます。
「視覚的要素・・・われわれの眼にするすべてのもの・・・は色と形である。すべてのものとは、可視的世界の多様な色と形、および芸術家や自然科学者が可視的にしてくれるもの、つまり精神界の視覚化である。」(以下「 」内は『色の形』カール:ゲルストナー著 阿部公正訳 朝倉書店1989より引用)
何故か、とても抽象的な表現かつ日本語として読みつらい印象はあると思いますが、ニュアンスが理解できるように感じるのは、私の関わってきた環境によるかもしれません。美術に関わる多かれ少なかれの人は、視覚的要素・・・精神界の視覚化は色と形によると考えてみたいと思うのではないでしょうか。眼にすること、それ自体は、ここでは能動的に「視る」というよりは、「見えると認知できること」と捉えてみました。
「すべての色はそれぞれ、他の色と区別される性質をもっている。その違いは、ほとんど知覚できないほどきわめて小さいこともあるだろう。あるいはまた、対立する両極・・・明・暗、純・不純、色・反対色・・・にまで高まることもあるだろう。
同じことは・・・色とは異なるパラメータによってではあるが・・・形についてもいえる。さまざまの色や形の間にある関係は相互作用をよび起こす」
はて、これをどう捉えたらよいでしょう。色というのは、工学的にも理学的にも、かなり研究が進み、差同性についてもある程度は説明できそうです。ところが、形に関しては「対立する両極・・・明・暗、純・不純、色・反対色」のような考え方を、異なるパラメータによってであっても可能なのでしょうか。
「色の形」でも、まずは色のお話から始まり、中盤で形(形の科学・・・幾何学としている)のお話、そして色の形と進んでゆきます。
色に関していうと、ひとつは人間が見て感じる・・・知っている色、つまり知覚した色を既知の色と比べて獲得してゆく、文学的といえるような色の捉え方。一方に物理的にものに光があたって反射する状態を、数値で表すような色の捉え方があるように思います。
色に関して、今興味を覚えているのは、「色を人間の眼がどのように捉えられるのか」です。それは、表現者としても探求したい。それがわかると、もっと意思から自由になって色を扱えるようになるのではないかと思うのです。
形に関しては、もう少し難しい。先ほど述べたように、他のかたちと区別される性質を持つ形、形と形の間の相互関係を知覚や再現できたりなどできるのだろうか。arsnoteの研究が、何か少し力になるのではないかと・・・まるで根拠もなくそう感じているという段階です。「色の形」に戻って、ゆっくりと大きく捉え直してみたいと思います。
指のそのさき
コンピュータに盲目的に恋をしていては、指のその先の機能拡張は不成功に終わるかも知れません。
好きなひとが作ってくれた料理を、いつも笑顔で美味しいね、というようなもの。
心の中で、あれ、何か変と思っても、何知らぬ顔をしていませんか。
「あれ、何か変な味。こうしたらお互い美味しなるかもしれない」といえる関係なのか否かは重要です。
パソコンやプリンタを機械と思っていては、あとで痛いしっぺ返しを受けるのではないでしょうか。
特に、ものつくりをしようとするアーティストの卵や学生さんは、
指のその先をいかにして我が指(脳?)の延長上のものとして獲得できるか、真剣に取り組んで欲しい(自分も含めて)と思います。
(気づいているか、否かで、アーティストと学生の大きな断絶があるかな)
いや〜とても無理と感じたならば、見切りをつけて別れて、まずは本物の指先の研鑽をしたらいいのではないでしょうか。
たぐり寄せること
帰路に、はじめてコンビニで唐揚げを買いました。辛い味付けの、かたい唐揚げでした。
食してみて、感じたこと。「う〜ん、同じように感じる人はどのくらいいるのだろう・・・」
コンビニのことだから、モニターに試食をしてもらい、売り上げに繋がるような味付けを見つけるだろう・・・。
ということは、私の味覚はマイナーなのだろうか。
それはともかく、所有(消費)すると同時に得られることは、同じ選択をするだろうひとびとへの主観的価値観なのですが、
そう考えること自体が、幻想なのでしょうか。
いやはや、遠く離れて眺め見ることの難しさや。
スカートのファスナーが、くるりと180度回転した位置に来ている時に、あぁ・・・と感じることとは違うのです。
どうでしょう。
何かに手を伸ばす時、同じように手を伸ばす幾多のひとたちを思い浮かべることができたら、
どんなに世の中の見え方が変わるでしょう。
引き続き試してみることにしました
友人や知人のブログを興味深く読みつつも、
自分自身のブログを設けるという機動力にはならなかったのです。
が、試してみてと薦められて作成したBloggerワールド、しばらく続けてみることにしました。
広い世の中、社会派ブログから私小説ブログまで様々溢れておりますゆえ、
今さら実験などとうそぶいても、たかがしれております。
せめて、古今東西、珊瑚礁からニュータウンの雑木林、はたまた東急ハンズ?
ささやかな生き物の力を見逃さず、改めてやさしく美意識を見直してみたいと思います。
Flickr
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